奈良美智の日々

カテゴリ:長久手日記( 16 )

80年代

僕は、高校を出て上京した頃は、全くの不良で、それなりに悪い人間だったはずだ・・・

最近、高校を出てから上京後、そして愛知での学生生活時代の写真を整理している。
なんだか恐ろしい写真がいっぱいあって、自分でもショックだったりする。

愛知県立芸大で学ぶために、東京から名古屋郊外の長久手に引っ越した。
愛知芸大という少人数でアットホームな学校に通うことになった。
それまで通ってた武蔵美のような大きな学校では、先生なんかから個人的には絶対に声なんてかけてもらえなかった。
愛知では、それまで雲の上の人だと思っていたような『先生』から、声をかけられ御飯やお茶にも誘ってもらったりした。
そして、家族や兄弟のように接してくれる同級生や先輩、後輩に出会った。
いっつも、誰かの下宿に集まっていて、密な時間を過ごしていた。
隔離されたような小さな学校で、みんな学校周辺に住んでいた。
雨が降れば道がぬかるむようなところで、農家の離れを改造したような下宿だったりした。

僕は、そこでの生活を感受し、そのおかげで少しは優しくなれたのだと、たった今、あの頃の写真を大量に見ていて気がついた・・・

写真を見ている限り、僕は自分が思っている以上に周りのみんなから好かれていて、みんなと楽しくやっていた。

あの頃の自分が気がつかなかったことが、再び見る写真の中にたくさん発見された。

僕は、ドイツ生活で個に向かい、今の自分の核となるものを確立したと思っていたし、確かにそうに違いない。
けれども、そんな個に向かえるような(すべてをそのままにしても、再び戻ってこれるような)安心感を与えてくれたのは、あの名古屋郊外の山の中での生活だったのだ。

80年代の自分の写真は、とがったような風から、だんだん爽やかな青年に移り変わっていく・・・

いろんなことに気づくのが、いつも遅いでかんがや~!


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by ynfoil | 2013-03-09 07:15 | 長久手日記 | Comments(0)

2月18日

嗚呼、この懐かしい母校という場所での、あの頃の自分よりも数倍学べた気がするこの場所での、思っていたよりも居心地の良いこの場所での、滞在制作にそろそろ終止符を打たなければならない。いつまでも、居心地の良い温室にいてはいけない。充分な筋力がついたならば、外に出てサバイバルしていかなくちゃいけないのだ。

思い返せば、かつてもそうやって外に出た自分だったけれど、負け犬のようにこの懐かしく優しい場所へ逃げ帰って来たのだと思う。母校は、故郷と同じように優しい。かつて少々不真面目で、ヘラヘラしていたこの学生に対しても、母校は優しい。

その優しさに触れるのは、これが最初で最後だ。ひな鳥のような眼をして、自分を見る現役学生たちと語り合うのは、この先無いと思え。

もしもまた、先輩面して語り合いたいのならば、もっと先へ歩んでいかなくちゃいけない。あの頃のように、政府や公共の奨学金なんかの世話にならなくても、自分で道を切り開いて進んで行くのだ。今あるらしいところの地位や名声なんて、嘘っぱちの蜃気楼だ。先へ、まだ見ぬ先へ、この足で進んで行くのだ。眼の前にある自分の弱さと戦いながら進んで行くのだ。

そうだ、誰も助けちゃくれない実戦で、闘いながら人は強くなっていくのだ。

体を使って、体当たりのように塑像した半年に、その成果と心地よい疲労感に、満足してはいけない。後ろ髪引かれることなく、孤独の世界に戻り、再び自分と向かい合って、その対話を画面に定着させていかなければいけない。

それが、この自分が、この世界に生きてるってことの証明であり、遺言のようなものであるのだ。

そうなんだ。ひとりでやっていくんだ。ひとりで戦うのならば、失敗したっていいんだ。苦しみや楽しみを共有できる人々と一緒に失敗するよりも、自分一人で失敗するほうが立ち直りは早く、さらに厳しい道に進むことになるのだ。それでいいのだ。

そして、オーディエンスの期待は無視していいのだ。彼らを意識して、彼らのために作品を作ったとしても、それが彼らとわかり合えるということにはならない。自分は自分自身とわかり合わなければいけないのだ。その自分対自分の、取っ組み合いの戦い、どんな嫌な奴らの前であっても、誠実に自分を曝け出している戦い、鏡に映る自分との戦いこそが、彼らの眼を覚まさせて、彼ら自身を心の奥に歩ませるのだ。
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by ynfoil | 2012-02-18 04:38 | 長久手日記 | Comments(0)

2月13日

夏の横浜個展・・・

今回ばかりは 自信も何も ありはしない

けれども まだまだ道は続いていくのだし
  
そもそも ゴールがどこにあるかなんて わかんないのだから

途中の姿をさらけだすのも怖くはない 望むところだ。
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by ynfoil | 2012-02-13 03:28 | 長久手日記 | Comments(0)

2012年1月27日


僕が6年間の学生時代を過ごしたところ・・・愛知県愛知郡長久手町に戻って来て、半年が過ぎた。

僕が6年間の学生時代を過ごした学校・・・愛知県立芸術大学に戻って来て、半年が過ぎた。

ほんの3週間ばかり前に、長久手町は長久手市になった・・・見渡す風景も、僕の学生時代とは変わってしまったし、学生の下宿にある電化製品だって、僕の頃とは全く違うのだろう。

そんな変化っていうものは、これからもどんどん加速していって、今の学生たちが自分の歳になる頃には、まったくもって未来世界になっているのだろう。

それでも、変わらないものがあるのだ。

いつの時代も、己の見えない未来に、少しでも実体を与えるべく思考し、形にしようとする若者たちの姿だ。

今、僕の眼に映る学生たちの姿は、何にも変わっていないあの頃の自分のようだ。

そして、気付くのだけれども、自分自身も何も進歩しちゃいなくって、体だけが勝手に歳を重ねただけで、やっぱり自分も学生のように前進しようともがいている。

一歩前へ!と、前進しようとするかぎり、心はいつもあの頃のようであり、もしかしたらディランの言うように「昨日よりも若い」のかもしれない。
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by ynfoil | 2012-01-27 04:58 | 長久手日記 | Comments(0)

12月16日 母校での講義の後に

9月から、名古屋市郊外にある愛知県立芸術大学にやって来て滞在制作をしているのだけど、母校だけあって非常に過ごしやすく、本来の目的であった『現在の精神力を身につけたまま学生時代にタイムスリップし、そこから倍速で学生時代をやり直し2011年の今に戻って来る』という幼稚な発想を、怖いくらい具体的に実行できている。

美大に入学したての1年生のアトリエに足を踏み入れてみれば、技術的には上手いのだが、ほとんど個性の無い、どれが誰のものだかわからないようなデッサンの集団が眼に入る。眼に映るものの解釈が、基本的な造形論のようなもので表現されているのだ。この時期、個性は無いが造形的な価値観が共通しているので、共同で作品を作ったりしても面白いと思うし、わりと簡単にそれが出来る気もする。しかし、学生の人間的な成長と共に、それぞれの作風らしきものを追求し始め、卒業する頃には多種多様な作品がアトリエの中に現れる。その中には、依然として自分探しを続けていたり、入学当初の技術的なものから脱却すらしていない者もいるし、原石が研がれて輝き始めている者もいたりと、もはやひとつの価値観を共有することは出来なくなっている。その多様な価値観の表出こそが、表現と言う行為を観る醍醐味なのだろうし、同じく多様な批評や評論を生んでくれるのだろう。

・・・学生と同じ空間で制作していると、自分の知識や経験から得たものを、時々めっちゃおしえたくなってしまうんだよなぁ。僕がもし生徒を持つようなことがあれば、自分の本棚全ての書物を与え、毎日のようにディスカッションして、過保護な教育をしてしまいそうだ。やっぱ、止めとこう。『明日のために その1』だけでいいのだろう、まずは。それをやり続けた者だけが、その2にたどり着くのだ。

今日は「学生のために」と称した講義をした。画像を見せて語るよりも、自分の経験から得た言葉で語ったつもりだけど、どれだけ伝わったのかはわからない。けれども、わかる者だけがわかる、でもいいと思っている。あるいは、真面目に誤解してわかってしまうのでもいい。要は、他の美術一本ではない人々には理解しづらい、人生を賭けるような切実さが伝わったらそれでいい。

傍から見た僕は、成功しているふうな作家のひとりかもしれない。才能あふれて制作しまくる作家に映るかもしれない。しかし、僕自身はいたって普通の人間であることは、接した学生ならみんなわかることだろう。もし、僕が作家という位置に立脚しているふうに映るのならば、それは「切実さ」に他ならないのではないかと思う。「切実さ」の意味は、問われても答えられない。答えられないからこそ、その「切実さ」のために、言葉で答えるのではなく手を動かし制作しているのだ。それは、食うためではないことだけは確かだし、楽しむためでもないことも確かだ。なんとなくではあるが、生きていることを実感するために、今この世に、この時代に自分がいることを、自分自身で確かめるために・・・確かめるために、色々と手を尽くし、その答えを生きているうちに手にしたい、命が果てるまでには必ず手にしたい、というような行動可能な残り時間に対する切実さというのが一番近い気がする。

多分、パンクロックに出会った時に共感したものも、明日がどうなるかわからない中で今を歌うような切実さにあったのだと思う。

あの頃が良かった、あの頃の作品が良かった、というオーディエンスはいる。しかし、そんな人に、そんな作品を見せ続ければ、きっと飽きてしまうだろう。その人の成長と共に感じ方は変わるし、作家自身も変わっていくのだ。ダメな時があり、復活する時があり、その繰り返しだ。常に自分自身が、誰の眼も気にしない勇気あるオーディエンスであるべし。

かつて、とある学芸員がシャガールの絵の素晴らしさを説くので、自分もいつかそんなふうな作品を描くのだ!と言ったら、「シャガールは越えられないよ」と即答されたことがあった。今まだ生きている40そこそこの画家に、すでに他界してしまった画家を優位に置く言動に失望したのを思い出した。確かに、理性的になれば、僕は自分でもはっきりと、ああいう画家を越えられるとか、そんなことは微塵も考えたことはない。そもそも比べるという発想がないのだ。ただ、その失望は「越えられないよ」の言葉が、この先、僕がさらに生きて絵を描いていくこと自体がその人にとっては物故作家のシャガールの絵に比べると、越えられないという、自分のこれからの創作活動に対する否定の烙印に感じたのだ。それは正に、その人にとって、まだ生きている自分の存在価値が、物故作家より無いということだった。

そんなことも、どうでも良くなった。人は人を信じすぎると失望が待っている、ということだ。今はプライドや知識や分析のない付き合いをしていける人々と、肯定も否定も意見し合い語り合うことの素晴らしさを実感しながら生きている。

母校の学生たちには、かつての自分がそうだったような顔をしていた。みんなに、伝えたいことはもっともっとあった。それは、3時間そこらじゃ無理なのはわかっている。言いたかったことの少しでも、なんては思わない。ただ、制作していくことに対する言葉に出来ないような「切実さ」だけが伝わってくれていたなら、と願っている。
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by ynfoil | 2011-12-16 23:33 | 長久手日記 | Comments(1)

あしたのジョー


自分の行っている表現方法は、技術的にはアカデミズムの中で学んだ基本的な物に支えられている。アカデミズムの正式な定義は知らないが、コンサバティブなものではなく、自由を見つけ出すための基本だと思っている。その入り口は狭く、奥行きがあり、気の遠くなるほど進めば大きな広場に繋がっている。僕は、その広場にたどり着きたくて、アカデミズムの破壊と再構築を繰り返している気がする。破壊と再構築をすればするほど、裾野は広がり、さらに高い山を築くことができる。裾野が広くなれば、かつての小さな山の形に似た大きな山にもなるし、連山を作ることも出来るかもしれない。小さな裾野を持つ山に高さを求めるならば、それは不安定であり、高さの限界はすでに見えているはずだ。そんな小さな山は、あたりを見渡せばいたるところに乱立していて、美大生時代の僕だったら素敵に羨ましく見えただろうし、裾野の広い高い山や山脈に繋がっているものだとも思っただろう。

成功したイメージの延長を求めること、限界はその中にある。それが小さな山だ。限界は、小さな成功の中にすでにあるのだ。破壊して再構築するということは、スタイルを変えていくということでもない。むしろ、同じスタイルでありながらそれを出来ることが自分の理想だ。例えて言えば、僕はニール・ヤングが歌う姿にそういうものを見ているし、変わることのない己の世界観、何を見つめ、何を作っていくのかということは、自分にとってとても大切なことだ。そこにはスタイルやバリエーションを変えていく中で描かれる絵には表れないものがある。それが良いのか悪いのかはどうでもよくて、ガードを固めずにひたすら打ちまくる『あしたのジョー』のようでもあり、僕の好きな道なのだ。
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by ynfoil | 2011-11-25 00:24 | 長久手日記 | Comments(0)

NOW AGAIN

いつから始まってるのか
いつ終わりがやってくるのか

夜がきても朝になっても
何も変わらないように息してる

決して戦うことのないような日常
陽は昇っては沈んでいく繰り返し


Hey!Hey! Let's Rock!


透明人間のように
通りを歩くこの僕は
人には見えてはいないのか

土曜の夜に浮かれる奴ら

恋愛ゲームの馬鹿げた番組

故郷の北風が懐かしい

上着をサッと羽織って
外の風にふかれるんだ

十代に見た夢を思い出し
目の前の蜃気楼に映ったら
怒ったように蹴り上げろ

やたらに成金趣味な
この世界に唾吐きかけて
怒ったように蹴り上げろ

やさしい顔で寄って来る
快楽主義のあいつらを
怒ったように蹴り上げろ

寂しくなったら自分に叫べ

「立つんだ!立つんだ!」
「立つんだ!立つんだ!」
「立つんだ!ジョー!」

Hey!Hey! Let's Rock! Let's Rock Again!
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by ynfoil | 2011-10-23 01:20 | 長久手日記 | Comments(0)

わかってたまるか!でも、わかろうとするべし!

少し制作に集中したら、何か芸術っぽいことを言ってみたり。
ちょっとライブに行くと、音楽についてしたり顔で語ったり。
映画をたくさん観たり、小説をたくさん読んだり、したようなふう。

まだまだ途中の人なのに、もう止めたりするわけじゃないのに。
わからないことは、まだまだたくさん山ほどあるのに。

わかったふうな事を言うなよ!自分!
自分に向けて言うだけでいいんだ!
いつまでも、わからない!って、呟け!自分!

『わかる』ために生きてるわけじゃないが。
『わかろう』とするために生きてる。

だから、一生わからないだろうけど(何が?www)
『わかる』より『わかろう』とすることのほうが、気持ちいい。

一生、気持ちよくありたい。
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by ynfoil | 2011-10-19 23:27 | 長久手日記 | Comments(0)

1か月半過ぎた・・・

母校にやって来て、学生に戻ったように制作して1カ月半。
同じ空間で一緒に制作している連中とも、コミュニケーションはバッチリ!

時々、みんなに手を貸してもらって、時々、みんなの作品に自分なりのアドバイス。
時間の差はあるのだけれど、それを越えて同じ空間で制作しているみんななんだ。

相も変わらず石彫場からは、カンカンと石を打つノミの音が響いてくる。
眼を閉じれば、入学したばっかりの杉戸や森北が、そこらを通り過ぎてく。
嗚呼、自分もピカピカの1年生で、先輩たちを威嚇するんだ。
学食前ですれ違う、ピアノ科のかわいいあの子の名前は知ってるぜ。

なんだか記憶も技術も作品も、戻り過ぎてるくらい初心者だ。
まぁ、いいや、そんな時期の自分もきちんと残しておかなきゃな。
あの頃は、すべて流れるように過ぎてって、何にも残っちゃいないんだから。
だから、今一度、あの時まで、あの頃まで、戻らせてくれないか。

そしたら、学べるだけ学んで、一足飛びに明日へ帰ってくるさ。

♪どうしたんだ?Hey!Hey!Baby!バッテリーはビンビンだぜ!♪
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by ynfoil | 2011-10-18 22:36 | 長久手日記 | Comments(0)

10月18日

進歩ってなんだろう?
自分は進歩してるんだろうか?
進歩したいんだろうか?
その過程がわかるように生きていたいんだろうか?

自然に時間が過ぎてゆく中で、意識するしないに関係なく、気がつけばちょこっと昨日よりも先に進んでることに気付く時、なんか、昨日よりも先に進んだとか感じたりする時、少しは幸せな気がするのだろうか?

そんなの自己満足の度合いのパーセンテージじゃないか。ましてや他人に判断されることでもない。所詮、考えるべきことじゃない。昨日よりも少しでも遠くに行きたいと思うこと。それだけでいいんだ。
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by ynfoil | 2011-10-18 22:30 | 長久手日記 | Comments(0)