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奈良美智の日々

カテゴリ:art( 7 )

PHASE 2015 "COMPANY"

 
 PHASE HP 

↓ 日本語テキストの後に中国語テキストが続きます。 

・・・COMPANYのヒミツ

奈良美智

去年の夏、僕はフィンランドからやって来た二人組のユニット『カンパニー』(COMPANY)と津軽地方を巡った。彼らは今回の展覧会プロジェクトのため、すでに東北をリサーチしてきていて、青森は最終地だった。僕らは弘前をぶらぶらして、ネプタ小屋にお邪魔したり、伝統的な津軽塗の工房を観て回り、ブナコ(注1)や染色の制作体験もやってみた。津軽三味線のライブも堪能して、青森ネブタの華やかなエンターテイメントや花火大会も楽しんだ。まぁ、お決まりの観光コースなのだろうけど、まずはそういうところを見せてあげないと、と思ったのだけど、案外自分も観光客のように楽しめた。

彼らはどこに行っても小さなノートにメモを取ることを欠かさなかった。自分にとっては当たり前の風景、リンゴ畑すらも彼らの眼には面白く映ったのだろうか、とか思い始めると、故郷を離れて30年以上経つ自分も、急に景色が新鮮に見えたりもした。彼らのノートには青森県以外でも、東北のコケシ職人やいろんな工芸家を訪ねたことが、手描きの図とともにびっしりと書かれていて、それはなんだか、明治時代に日本の辺境に旅して記録していったヨーロッパ人の残したもののように見えて、自分の中で時間と場所がツイストした。

一緒の旅の最終日、僕らは岩木山麓に宿をとり、古くから信仰の対象であった岩木山の山頂に登り、周辺の森を探索した。その最後の1日が文化や慣習の違いをとっぱらい、日本以上に共生意識をもって自然と暮らすフィンランドからやって来たふたりと、この東北の果てを精神的に結びつけた気がする。事実、岩木山を後にしてから、僕は彼らを五所川原市の「川倉賽の河原地蔵尊」に連れていくことを思いつき、模範生的な観光から逸脱してしまった。しかし、これが今回の展示アイディアにおいて何かしら重要なステップになった気がしている。

恐山にも行った、と彼らは話していたが、「川倉賽の河原地蔵尊」での体験はかなりインパクトがあったはずだ。たくさんの化粧地蔵があるお堂の中では、造形的、美術的な面白さもあったが、隣接されている建物に入った時は言葉を失った。それは、子どもを亡くした親や親族が、その子の結婚適齢期に合わせて奉納した夫婦人形が並ぶ建物で、人形の数は2000体以上はあっただろう。この人形を介しての死霊結婚という行いは、戦後から始まったと言われていて決して古いものではないが、自分にとってさえ、本州最北端の地の特異な風習に思えた。僕は拙い英語で、水子地蔵や夫婦人形のことを説明したのだが、話しているうちに自分がどのような土地で生まれ育ったのかを意識せざるを得なかったのだ。

フィンランドの人々は、古くから北欧的な自然崇拝、すべてのもの神が宿るというような多神教意識のもとに暮らしていたが、キリスト教の伝来と近代化の後、そのような意識は希薄になっていった。しかしながら、民衆の暮らしの中には森や自然と人のスピリチュアルな関係が未だに存在している感がある。そのような迷信と言われても仕方ないようなことが、生活の中で機能しているというのは、恐山や川倉の大祭に集い、口寄せをするイタコに人々が耳を傾けたり、女性たちが、男子禁制の部屋でおしら様を遊ばせて楽しむ風習の残る、この青森県と似ていると思うのだ(注2)。もちろん、現代青森ではそのような人々は少数派、あるいは保存すべきもの、もしくは観光の一部としてしか存在していないのかもしれない。それでも、近代化以降も、生活の中に感覚として、スピリチュアルなものが残っていることは事実だろう。

フィンランドを拠点とする二人組ユニットCOMPANYではあるが、一人はフィンランド人のヨハン・オリン (Johan Olin)であり、もう一人は韓国出身のアーム・ソン (Aamu Song)である。アームはフィンランドの大学に留学し、卒業後も彼の地に留まり今に至っているのだが、隣国である韓国もまた、まじないや祈祷の類が生活の中に残っている国である。彼女の発言や意識にはとても霊感的なものがあると、僕は感じている。話は飛ぶが、その感覚は、やはり自然崇拝が暮らしの中に残っているアイスランド出身の歌手、ビョークから受けるものにとても似ている。カンパニーの二人が東北を旅して、土着的でスピリチュアルなものに興味を持ったとしても、それはまったく不思議ではないのだ。

このテキストを書いている時点で、彼らの展示の詳細を僕はまだ知らない。それでも、単にカッコいいもの、あるいは単なるローカリゼーションに乗っかったような展示にはならないだろうと思うのだ。それは、彼らがこの東北という土地を旅して得たであろうものが、この自分がバックグラウンドとして逃れられない青森、東北という磁場に繋がっていると確信しているからだ。

最後にカンパニー、その二人との出会いを記しておく。僕らは2006年、日本やフィンランドから遠く離れたタイのバンコクで出会った。シラパコーン大学のギャラリーで行われたグループ展の出品作家同士で、共通の知人を介して紹介された(注3)。その時は、そんなに話もせず、彼らの仕事(作品)にはとても興味を持ったが、連絡を取り合うということもなかった。

それから、6年後の2012年。ヘルシンキの美術館でレクチャーを行うために訪れた初めてのフィンランド。朝の街をぶらついてると「ナラ・サン?」と、小屋のようなブティックの前で開店準備をしている男性に声をかけられたのだった。それがヨハンとアームとの7年ぶりの再会だった。彼らの店で、実際のプロダクトを手にして、説明を聞いた。それはいろんな土地で、そこに暮らす職人たちの技術と彼らのアイディアとのコラボレーションで、独創性にあふれていた。さらに自分のレクチャー会場の美術館で、偶然に彼らのロシアでのプロジェクトの展覧会が開かれていた(注4)。ロシアの工芸職人たちを巻き込んだプロジェクトは、面白い!以外の何物でもなかった。僕は、その時から、偶然の再会は必然だったのだな!と思い始めて、こうしてこの地まで彼らを呼ぼうと決心して、今にいたったわけなのです。

このテキストでは、彼らが今まで行ってきたプロジェクトや作品については触れなかったが、興味を持ったならば彼らのウェブサイトを訪れてみてください(注5) 。面白いよ!

(注1) 青森県が日本一の蓄積量を誇るブナの木を厚さ1mm程度のテープ状にカットし巻き重ねたものを、器状に成形して作られる青森の木工品。50年の歴史をもつ弘前市の「ブナコ株式会社」で製作されている。

(注2)  日本三大霊場の一つ恐山の大祭[7月20-24日]や「川倉賽の河原地蔵尊」の大祭[旧暦6月22-24日]には、県内各地から「イタコ」と呼ばれる盲目・半盲目の巫女(霊媒)が集まる。「イタコ」は依頼者の求めに応じて、故人の霊魂をあの世から呼び寄せる「口寄せ」を行う。「おしら様」は東北の家の神として祀られるもので、一般に養蚕の神として知られるが、青森県では、家の守り神、農神、火を防ぐ神、厄を払う神などとしても長らく信仰されてきた。御神体は長さが30cmほどの男女(あるいは馬と娘)1対の木偶で、オセンダクと呼ばれる布切れが幾重にもかぶせられている。代々女性によって祀られ、「イタコ」(あるいはカミサマと呼ばれる民間宗教者)を呼んで行われる祭祀「おしら様遊ばせ」は、集落の主婦たちが中心となった年中行事となっている場合がある。 

(注3) 2006年、タイ、バンコクのシラパコーン大学Silpakorn Universityで開催された 「束の間美術館 ソイ・サバーイSoi Sabai」展。

(注4)  2012年、ヘルシンキの国立現代美術館キアズマで開催されたグループ展「カモフラージュ」にはカンパニーの「シークレッツ・オブ・ロシア Secrets of Russia」の作品が出品された。Camouflage, Kiasma, Helsinki, Finland, 2012

(注5) 「カンパニー COMPANY」のホームページ(英語のみ): http://www.com-pa-ny.com



COMPANY的秘密

奈良美智  訳・Frances Wang

去年夏天,我帶來自芬蘭的雙人組合「COMPANY」到津輕地方到處逛逛。他們為了這次的展覽企劃,已經在東北地方到處考察,青森是最後一處。我們在弘前閒逛,去參觀睡魔小屋、到處看傳統的津輕塗工房,嘗試了櫸木工藝品(BUNACO,注1)與染色的實作體驗。我們也充分享受了津輕三味線與青森睡魔祭華麗又熱鬧的活動和煙火秀。看起來就是像是標準的觀光行程,雖然我本來覺得這些只是必須帶他們去的地方,但意料之外的是我自己也像觀光客一樣看得很開心。
他們不管到哪裡都拿著一本小記事本記筆記。我開始覺得,那些對我來說是理所當然的景色,甚至是蘋果園,在他們的眼裡也都是非常新鮮有趣的吧?離鄉已經超過三十年的我,突然也看得見這些風景的新奇有趣之處了。在他們的筆記裡,除了青森縣以外,也記錄了拜訪東北地方製作小芥子人偶的工匠與各種藝術家的紀錄,手繪圖配著詳細記錄的文字,那看起來簡直就像是歐洲人在明治時代到日本邊境旅行所留下來的紀錄一樣,在我心裡,時間與空間也跟著扭轉了。
一起旅行的最後一天,我們住在岩木山麓,登上了自古以來被當作是信仰對象的岩木山山頂,探訪周邊的森林。在這裡的最後一天,撇開文化與習慣的差異,來自比日本更具有與自然共生意識的芬蘭的兩人,終於感覺到在精神上與這塊東北盡頭的土地連結起來了。事實上,在離開岩木山之後,我本來想要帶他們去看五所川原市的「川倉賽的河原地藏尊」,但終究還是從模範生式的觀光中脫逃了。但我覺得這些見聞對於我們這次的展覽靈感而言是非常重要的一環。
他們說也去了恐山,但對於在「川倉賽的河原地藏尊」所感受到的應該是更加具有衝擊性。在堂裡看到經過裝扮的大量地藏,造型上與藝術上雖然都非常有趣,但一走到隔壁棟的建築物裡,他們完全說不出話來。那棟建築裡放置著失去孩子的親人和家屬為了配合死去孩子的適婚期而供奉的夫婦人偶,數量高達2000尊以上吧!藉由這種人偶的冥婚方式,並非古老習俗,而是從戰後開始的,甚至對我來說,我想這是日本本州最北端之地擁有的特殊風俗習慣。我以不純熟的英語向他們說明水子地藏(譯:為早夭嬰孩所立的地藏,常見於鄉下路旁,身上綁有紅布)與夫婦人偶,但在說明的同時,我也不由得意識到自己是生長在什麼樣的土地上。
芬蘭人自古以來就在北歐式的自然崇拜、世間萬物都有神靈寄寓其中的多神意識之下生活,但自基督教北傳與近代化之後,這種意識就變得較為淡薄了。但是在民眾的生活中,仍然能感受到森林和自然與人精神上的關係之存在。這被說為是迷信似乎也無可奈何,但是在生活中具備實際功能的是人們聚集在恐山與川倉的大祭中,傾聽進行降靈儀式的巫女(itako)所言,另外女性們在男性禁止進入的房間裡賞玩御白神的風俗也流傳下來了,這與青森縣非常相似。(注2)當然,在現代的青森裡這類人物是少數,或說是應該被保存的習俗,甚至可能也變成觀光的一部分。儘管如此,近代化之後,作為生活中的感受、精神性的事物留存下來也是事實吧!
以芬蘭為據點的雙人組合COMPANY,其中一位是芬蘭人Johan Olin,另一位是韓國出身的Aamu Song。Aamu Song在芬蘭的大學留學,畢業後就留在Johan Olin的國家至今,但日本的鄰國韓國現在仍舊是生活中保有咒術與祈禱之類習慣的國家。我從她的話語和想法中可以感受到充滿感應式的東西。雖然有點扯遠了,但那種感覺就像從生活中還保有自然崇拜的冰島歌手碧玉身上可以感受到的一樣。COMPANY的兩位到東北旅行,就算對於當地所產生的靈魂式事物感興趣,這一點都不令人覺得奇怪。
寫這篇文章的時候,我對他們展示的詳細內容完全一無所知。儘管如此,如果只是覺得非常酷、或者說只是非常地方化的內容是不會展出的吧。因為我確信他們在東北這塊土地上旅行的收穫,與作為我逃避不了的出身背景青森、東北地方的磁場是相吸的。
最後,我要說明一下與COMPANY這兩人相遇的過程。我們是在2006年,在與日本和芬蘭都相當遠的泰國曼谷相遇的。當時我們是一起參加泰國藝術大學(Silpakorn University )舉辦的聯展,透過共同朋友介紹認識(注3)。當時我們沒什麼交談,雖然對他們的作品很有興趣,但也沒有繼續保持聯絡。
後來,在六年後的2012年,我去赫爾辛基的美術館演講,那是我第一次造訪芬蘭。當我在早晨的街道上散步時,在一間宛如小房子的精品店前面準備開店的男子向我喊了聲:「NARA SAN?」那是我與Johan與Aamu 相隔七年的重逢。在他們的店裡,我用手觸摸他們的作品,聽他們說明。他們將在各種土地上生活的職人們的技術與他們的想法結合所產生的作品,充滿了獨創性。我甚至在自己的演講會場的美術館裡,看到了他們的俄羅斯計畫的展覽會(注4)。由俄羅斯工藝職人們參與的作品,除了有趣還是有趣。我從那時開始就覺得我們的重逢一定有其必然性!因此就決定要叫他們來這裡看看,這就是他們來到這裡的原因。
這篇文章雖然沒有寫到他們至今所做過的計畫與作品,如果有興趣的話,請到他們的網頁看看(注5),很有趣喔!

注1:櫸木工藝品(BUNACO)是青森縣將堪稱日本產量第一的櫸木做成1公釐厚的帶狀切斷後捲起重疊,做成器物形狀的木製產品。由具有50年歷史的弘前市BUNACO株式會社所製作。
注2:在日本三大靈場(恐山、高野山、比叡山)之一的恐山大祭(7月20-24日)和「川倉賽的河原地藏尊」大祭(舊曆6月22-24日),縣內各地被稱為「巫女」的盲眼、半盲眼巫女(靈媒)會聚集而來,巫女會應請託者的要求,會進行將亡者的靈魂召喚到人間的降靈(觀落陰)儀式。「御白神」是東北地方的民間神祇,一般以養蠶之神為人所知,在青森縣,家的守護神(譯:類似地基主)、農神、防火神、除厄神等也有長遠的信仰歷史。神的形體是以高度約30公分的一對男女(或是馬與女孩)木偶,用稱為「御洗」的和服布層層包住(譯:依地方有包住頭或是穿過頭的形式,每年加上一層新的布)。代代由女性來祭祀,某些地方由聚落的主婦們為中心,邀請巫女(或是被稱為神女的民間宗教人士)來進行祭祀的「御白神賞玩」也成為一年中的祭典之一。
注3:2006年泰國曼谷的泰國藝術大學舉辦的「短期美術館Soi Sabai」展。
注4:在2012年赫爾辛基國立現代美術館奇亞斯瑪舉行的聯展「Camouflage, Kiasma, Helsinki, Finland, 2012」中,COMPANY的作品「Secrets of Russia」也參加了。
注5:COMPANY的網頁(英文): http://www.com-pa-ny.com

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by ynfoil | 2015-05-31 08:26 | art | Comments(5)

去年、アメリカのアート雑誌だったか新聞だったか・・・のQ&A

インタヴュー自体は去年の暮れ頃だと思うけど、心の声を(かっこ)で追加してみた。

1. Much has been made about your art being about your own unhappy childhood; you have said they are largely self-portraits. Why are your subjects primarily girls?
作品は不幸せであった幼少時代を表しているものだという話は良く聞きます。作品の大体は自画像だ、と奈良さんはおっしゃいましたね。なぜほとんどの被写体は女の子なのですか?


まず、僕の子ども時代が不幸だったと自分自身で思ったことはありません。ひとり遊びが得意で、動物たちとも話が出来、空想力や想像力に富んでいたと思います。大人の眼には寂しそうに映っても、その被写体が寂しいと感じているかどうかは疑わしいものです。僕がよく言うのは「他者から見れば、孤独に映るような子ども時代」であって、自分にとっては、毎日友だちと遊ぶよりも、必然的に内なる自分と会話し、感性を育んだ子ども時代です。また、方法論ではなく感性に沿って生み出される作品はすべて自画像といえるのではないでしょうか?人は見かけで物事を判断しようとする傾向があります。そのような人には描かれているものが「女の子」に見えるのでしょう。僕自身は、女の子を描いている意識はないし、男の子でもなく動物でもない。あえて(僕の嫌いな)カテゴライズすれば、「中性的であるところの子ども」と言えます。つまり、僕は「女の子を描こう!」と思って作画したことはありません。

(んなこと、ど~でもいいだろ~。自画像が女の子だと変なのか?心の自画像だってばぁ~。似てないと自画像って言っちゃダメなんかよう?)



2. Can you describe your work process? How, for example, did you come to make "White Ghost" for Park Avenue? Were you more concerned with the physical site, or did the street's storied wealth and status come into play for you?
制作過程を説明してください。例えば、どのようにパーク・アベニューの「White Ghost」をつくられたのでしょうか?物理的サイトを重視していましたが?この道路の名高い富や地位などは関与したでしょうか?



歴史的に見た場所については特別に考えていませんでした。道路の幅と設置される花壇の幅との対比に対してのモニュメントの高さを物理的に考えました。また、ビルに囲まれて交通量も多いごちゃごちゃした都会の道路に設置するとのことで、色もフォームもシンプルにしたつもりです。目玉が無いのもそんな理由です。意味的な場所との関わりや、何かを見つめる・・・みたいなことから遠ざかって、幽霊のような不確かな存在にしたかったのです。

(あ~説明するのかったりぃ~~~。フィーリングだ!フィーリング!)

3. How does music influence your work?
音楽はどのように作品を影響しているでしょうか?


それは、秘密です。が、わかる人にはわかる暗号のような形で反映されています。音楽を愛する人にのみ答えたいので、ここでは言いません。

(秘密でいいじゃん!)

4. Roberta Smith of The New York Times compared your show at the Asia Society to a village. Was that your goal?
ニューヨーク・タイムズのロベルタ・スミス氏はアジア・ソサエティーの個展を「村」に例えていました。これが奈良さんの目的でしたか?


僕にとって彼女の批評は、とても新鮮であり、うまく物事を説明できない(それゆえ絵を描く)自分の想いと、作品から派生する事象を正確に言葉に置き換えてくれました。しかしながら、展覧会自体に対して僕は目的意識を持ちません。彼女が「村」に例えたのは僕への配慮ではなく、オーディエンスへの配慮です。

(自分は目的なく作ってるんだってばぁ。自然に出来てきて、そうなっていくんだってばぁ。でも、ロベルタがすごく良く書いてくれてうれしかった超。「美術だけじゃなくてロックも勉強しなきゃ」って彼女言ってた。抽象表現主義が専門で、NYでの最初の個展の時から、絵の内容よりも画面の見え方について書いてくれてた。旦那さんも有名な評論家だけど、作家にとっては彼女の書く評論の方が染みるはずだ!と僕は思ってる。)

5. You started as a painter. What drew you into sculpture and installation?
元々は画家でしたね。なぜスカルプチャーやインスタレーションに興味を持ったのですか?

もともとは画家でもありませんでした。立て続けに絵を見せれば人は『画家』と言い、スカルプチャーを発表すれば『彫刻家』といいます。人はどうしてカテゴライズしたがるのか不思議です。

(・・・絵本作家でもあるぜ!そう思ったことはないけど。)


6. Why do you blog and twitter?
なぜブログや Twitter を書いているんですか?


わかりません。ブログはあんまり興味がないので更新の速度が遅いです。Twitterは誰もが始めるのと同じ理由でしょう・・・どんな理由かわかりませんが、みんな理由なく始めてるんじゃないかな?つぶやいてみたい・・・と。

(こうして、心の声を言えるからだ!)



7. Many artists are weary of achieving a certain kind of celebrity, but you seem to actively court your fans. Why?
多くのアーティストはあるタイプのセレブになる事を警戒していますが、奈良さんは積極的にファンを招いているようですね。これはなぜですか?


わかりません。けれども僕は自分から宣伝するようなことはしない主義です。実際、ここ5年間で僕のスタジオへの取材は全て断っています。Twitterではつぶやきますが、自分のいるべき場所は知っているつもりです。

(記者やジャーナリストや仕事で出会う人たちよりも、純粋に作品を観に来てくれる人たちが大切で、ストレスためながら取材受けるより、自由に発言できるし、届くからだ!)


8. You said recently that you did all the real work at the Armory before your fans were allowed in each day at 4 pm. If that was the case, why did you have the "open studio"?
最近の発言で、ファンの方がアーモリーに来る4時の前に本当の作業をしていたとおっしゃいましたね。そうならば、なぜ「オープン・スタジオ」をしたのですか?


『オープンスタジオ』とは作業する場所を見せることであって、作業する姿をみせることではないと思っているからです。人に見られて作業に没頭できるほど自分はプロフェッショナルではありません。オープンスタジオは美術館側からの提案であり、美術館内では規則のため大工仕事が出来ないので、アーモリーを使わなければいけませんでした。アーモリーを使用する代償としてのオープンスタジオでした。

(嫌だったけど、ほんとに観たい人たちも来てくれたと思うから、やってよかったけど・・・)


9. Why do you think most American and European artists are hesitant to do commercial projects, fearing that they will be seen as selling out, but you make all kinds of merchandise?
奈良さんは多くの商品をつくられますが、アメリカやヨーロッパのアーティストの大半は商業的な企画に対して、「セルアウト」(裏切り者)になることを恐れてためらいます。これはなぜだと思いますか?


僕は自分を裏切り者だとは思ってもいないし、自分がやりたいものだけを選んできたつもりです。有名な企業やデザイナーからのオファーは「有名」ということで断っています。また、たくさんのアーティストの作品イメージを使ってグッズを作りまくっている業者とも仕事はしませんし、特定の企業のためのCMに使われることも断ります。しかし、中国などでフェイクのグッズがたくさん生産されているので、質問された方はそれも僕のグッズだと思っているのでは?そして、いつも不思議がられるのですが、今まで一度もそのような業者を訴えたことがありません。自分の本業は、あくまでも絵を描くことです。その絵の制作に妥協するようになった時こそ、絵を裏切った正真正銘の「裏切り者」になるはずです。

(実際の話、グッズや画集がバカ売れしても、森子が売れて得る収入のほうが、めっっっちゃ多いのだ!でも、本物の作品を買えないほんとのファンのためにグッズや本を作るのだ!本物買っても、倉庫に眠らせたまんまだったり、高くなったら売ったりするような人たちよりも、ほんとに好きな人たちの本棚に自分の画集があるほうが、目には見えない本物を買ってもらってる気がする)


10. Do you think critics who call your work "cute" are missing the point? Do you see your work as dark?
奈良さんの作品を「かわいい」(cute)と呼ぶ評論家は全く理解していないと思いますか?自分では作品をダークだと思っていますか?


作品はダークでもありCuteな部分もあり、たくさんの感情や印象の複合体です。表面の奥底まで、たくさんのレイヤーがあり、どこまでレイヤーが見えるか、ということを僕は言ったつもりです。かつて「難解」と言われた現代絵画から「難解」と言われる部分をわかりやすくした時、いくつかのフィギアティヴな絵画の傾向が生まれました。そのひとつの表現が「Cute」という言葉と共にズームアップされてきました。「Cute」という言葉を、ひとつの潮流、あるいは文化全体を覆うレッテルとして定着させてしまったのは、批評する側のボキャブラリーの不足にあった、ということを言いたいのです。それはまたオーディエンスにも言えることであり、安易な解釈でシーンに入って行ったアーティストにも言えることです。

(そうそう!ちゃんと答えてる自分・・・)

11. Are you concerned your work is too accessible? Is there such a thing?
自分の作品が観客にとって身近過ぎる、分かりやす過ぎることを心配しますか?芸術に「身近過ぎる」、「分かりや過ぎる」ということはあるのでしょうか?


人は成長とともに鑑賞する眼も変化していきます。昨日見えたものと違うものが作品から感じられるようになったりします。それは歌や小説、映画など人による表現行為すべてに言えることです。「身近すぎる」「わかりやすすぎる」と思われても、それはその時だけの印象にすぎないと思っています。

(それは僕じゃなくて、オーディエンスがそれぞれに思って決めること!自分は知らん!)

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こうして(心の声)とかあると、インタヴューとか苦手で、めっちゃ疲れるのわかってもらえるだろうか・・・

10年以上前、友だちに「雑誌やなんか、メディアに載りたくても載れない人がいるのに、苦手だ、嫌だ、で断るのは失礼だ!」と叱られたことがあった。でも、僕は雑誌に載りたい!と思ってないから苦手なのだ。目的が雑誌に載ることだったら、喜んで、頼んででも取材を受ける!もう良い服着て何でもやっちゃう!・・・でも、僕がこの世に生きていて制作している目的は絶対にそんなことではないのだ。

・・・けど、あおいちゃん(宮崎)や多部ちゃんに会えるってので引き受けることは・・・あるな・・・対談がきっかけでマブダチも出来たしな・・・草間さんも対談で初めて会ったんだよなぁ・・・ある意味、感謝しなきゃいけない!実際いろんなオファー来てるんだけど・・・小山さんやはまちゃんが断ってくれてるんだよなぁ・・・草間さんとの対談も来てたなぁ。頼まれた方が「奈良さんと草間さんが対談したらどうなるのか!って思ってオファーしました!」・・・って、前にすでにやってるんだよなぁ。リサーチしてんのかな?やる気あんのかな?

でも!草間さんに久しぶりに会いたい!小山さん、やってもいいかな?いいよね?
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by ynfoil | 2011-03-11 03:32 | art | Comments(0)

若き日・・・音楽と絵と学生生活と・・・

・・・レゾネに載せるために書いたテキストの抜粋・・・

・・・前略・・・
[Omitted]

・・・子どもの頃に聴いていた米軍のラジオ放送、言葉の意味はわからないけれども、スピーカーから流れ出る音楽のメロディやリズム、そのサウンドが僕を引きつけていた。中学生の頃にはいっぱしの音楽評論家のように友だちとロックを語るようになり、高校の門をくぐる頃にはロック喫茶やライブハウスにたむろするようになっていた。当時、そんな僕らは社会的にはまったくのマイノリティで、世間では不良と呼ばれていたのだけれども、ちょっと年上の仲間たちは、酒を飲み煙草を吸いながら、僕の知らない映画や文学の話を夜が更けるまでしてくれたのだ。もしも夜の学生街が学校であったなら、僕はきっと成績優秀な優等生だっただろう。

As a kid listening to U.S. armed-forces radio, I had no idea what the lyrics meant, but I loved the melody and rhythm of the music. In junior high school, my friends and I were already discussing rock and roll like credible music critics, and by the time I started high school, I was hanging out in rock coffee shops and going to live shows. We may have been a small group of social outcasts, but the older kids, who smoked cigarettes and drank, talked to us all night long about movies they’d seen or books they’d read. If the nighttime student quarter had been the school, I’m sure I would have been a straight-A student.

・・・しかしながら80年代、故郷を離れて美術学校に通うようになった美術学生時代の僕はきっと優等生ではなかったろう。模範になる学生とは、それぞれの専攻にたいしての好奇心を集中させ、いわば研究者のように学ぶ姿勢を持つものだ。部屋の本棚には専攻に関する書物があふれ、アトリエでは制作に明け暮れ、夜ともなれば、過去や現在の美術を仲間と語り、お互いに批評し合ったりする日々を過ごし、学生時代から新たな潮流を作りだそうとするような。そんな模範的な学生に僕は程遠く、夢を見るような野心すら持ち合わせていなかった。日本での学生時代に描いた絵は与えられた課題作品がほとんどで、後はドローイングと呼ぶにはひとりよがりな落書きのような絵を、ノートやスケッチブック、包装紙なんかに描きまくっていた。

In the 80s, I left my hometown to attend art school, where I was anything but an honors student. There, a model student was one who brought a researcher’s focus to the work at hand. Your bookshelves were stacked with catalogues and reference materials. When you weren’t working away in your studio, you were meeting with like-minded classmates to discuss art past and present, including your own. You were hoping to set new trends in motion. Wholly lacking any grand ambition, I fell well short of this model, with most of my paintings done to satisfy class assignments. I was, however, filling every one of my notebooks, sketchbooks, and scraps of wrapping paper with crazy, graffiti-like drawings.

・・・若き日の、今の自分から見れば眩しいようなエネルギーは一体どこへ消えていったのだろうか。アルバイトしては、画材や画集を買うでもなく大好きなレコードを買う。映画やライブに行く。ガールフレンドと一緒にいる。ひとりよがりな落書きを紙に描く。真夜中に電気の付いている誰かの下宿を襲撃する。僕の若き情熱は学校のアトリエの外で蒸発していったのだろう。でも、先生から褒められたり、その才能をきらめかせてデヴューしていく人たちを羨ましいと思わなかったわけではない。いや、羨ましかったというのはちょっと違うなぁ。なんだか自分とは別世界の人たちのような気がしていたのだ。僕の青春期のエネルギーは、煙草の煙となって吐き出され、スピーカーから流れるロックミュージックと共に、空に吸い込まれていったのだろう。

Looking back on my younger days—Where did where all that sparkling energy go? I used the money from part-time jobs to buy record albums instead of art supplies and catalogues. I went to movies and concerts, hung out with my girlfriend, did funky drawings on paper, and made midnight raids on friends whose boarding-room lights still happened to be on. I spent the passions of my student days outside the school studio. This is not to say I wasn’t envious of the kids who earned the teachers’ praise or who debuted their talents in early exhibitions. Maybe envy is the wrong word. I guess I had the feeling that we were living in separate worlds. Like puffs of cigarette smoke or the rock songs from my speaker, my adolescent energies all vanished in the sky.

・・・僕の通った美大は田畑に囲まれた郊外にあって、実際にアクティブなアートシーンがそこにあったわけでもなく、テレビや映画を観るようにアートの世界はどこか知らない世界にあるものだと思っていたし、なにか西洋の文脈で語られるアート自体にリアリティを持つこともできなかったのだ。もちろん、都会に憧れない若者はいないように、ふまじめな学生ではあったけれども、この世のどこかに存在するアートシーンとやらを眩しく見ていたには違いない。そのようなアートシーンに憧れながらも、そこに登場する権利が自分にはないと確実に思い込んでいた。典型的な地方の劣等生だ。

Being outside the city and surrounded by rice fields, my art school had no art scene to speak of—I imagined the art world existing in some unknown dimension, like that of TV or the movies. At the time, art could only be discussed in a Western context, and, therefore, seemed unreal. But just as every country kid dreams of life in the big city, this shaky art-school student had visions of the dazzling, far-off realm of contemporary art. Along with this yearning was an equally strong belief that I didn’t deserve admittance to such a world. A typical provincial underachiever!

・・・それでも僕は、絵を描くことが好きだった。落書きのようなドローイングは毎日のように描かれ、誰にも見せることなくどんどんたまっていった。それらは必然的に日記のようにその日の感情に任せて描かれ、時には過去の思い出も交差したもので、自分的日常という小さな世界から想像力を喚起させ、イメージとして発展させ定着するという、良いトレーニングになったのだろうと思う。しかし、そのイメージの数々を紙からキャンバスに移し、定着するという作業にはまったくたどり着けてはいなかった。

I did, however, love to draw every day and the scrawled sketches, never shown to anybody, started piling up. Like journal entries reflecting the events of each day, they sometimes intersected memories from the past. My little everyday world became a trigger for the imagination, and I learned to develop and capture the imagery that arose. I was, however, still a long way off from being able to translate those countless images from paper to canvas.

・・・空想すること、想像することでイメージを得ること。感じることでそれを確信すること。それは集めていたレコードを聴くことでもそうだった。まだインターネットなんてない時代で音楽雑誌も2、3種類しかなく、情報量は圧倒的に少なかったし、僕が買っていたレコードは輸入盤が多く、解説書はもちろん歌詞カードすら付いていないものがほとんどだった。さらに、どんなに音楽を好きな気持ちがあっても、非英語圏に住んでいるために、歌詞内容の把握がうまく出来ないという悲しい事実があった。それは宗教感の違いや、音楽自体を取り囲む社会やサブカルチャーの違い、体が反応するビートの違いでもあったのだけれども、僕は自分が愛する音楽を聴き続けた。12インチのLPレコードを包み込んでいるレコードジャケットを飽きることなく隅から隅まで見続けながら、体に詩と音を取り込んでいたのだ。それは現在のように情報過多の中にあって、いかにそこから選び抜くのかではなく、少ない情報からいかに感受性を働かせて想像し確信するかということだった。ひとつの言葉、ひとつのメロディ、ギターのリフやリズムを刻むドラムとベースの音、そしてジャケットのヴィジュアルからインスパイアーされ、頭の中に生み出されていく新たなイメージ。それを僕は、鉛筆を持った右手で紙に描き連ねていったのだ。上手いとか下手だとか、そんな判断では語れない意思を持ったイメージは、紙きれの上では自由でフレンドリーに見えた。

Visions come to us through daydreams and fantasies. Our emotional reaction towards these images makes them real. Listening to my record collection gave me a similar experience. Before the Internet, the precious little information that did exist was to be found in the two or three music magazines available. Most of my records were imported—no liner notes or lyric sheets in Japanese. No matter how much I liked the music, living in a non-English speaking world sadly meant limited access to the meaning of the lyrics. The music came from a land of societal, religious, and subcultural sensibilities apart from my own, where people moved their bodies to it in a different rhythm. But that didn’t stop me from loving it. I never got tired of poring over every inch of the record jackets on my 12-inch vinyl LPs. I took the sounds and verses into my body. Amidst today’s superabundance of information, choosing music is about how best to single out the right album. For me, it was about making the most use of scant information to sharpen my sensibilities, imagination, and conviction. It might be one verse, melody, guitar riff, rhythmic drum beat or bass line, or record jacket that would inspire me and conjure up fresh imagery. Then, with pencil in hand, I would draw these images on paper, one after the other. Beyond good or bad, the pictures had a will of their own, inhabiting the torn pages with freedom and friendliness.

・・・僕の絵が意思を持ち、ドローイングに描いた世界に近づくのは大学を卒業する頃だ。誰とも比較されることのないような私的世界を、ドローイングのように軽やかとはいかないけれども、下描きもアイディアスケッチも無しに、心の中に浮かぶ気持ちを大切にして、描いたり消したりをなんとか自由に出来るようになってきていて、漠然とではあるのだが、自分の描き方というものが確立されてきたような実感を持ち始めていた。しかし、そこに一生描き続けていくというような決意も意思表明も見いだせてはいなかった。

By the time I graduated from university, my painting began to approach the independence of my drawing. As a means for me to represent a world that was mine and mine alone, the paintings may not have been as nimble as the drawings, but I did them without any preliminary sketching. Prizing feelings that arose as I worked, I just kept painting and over-painting until I gained a certain freedom and the sense, though vague at the time, that I had established a singular way of putting images onto canvas. Yet, I hadn’t reached the point where I could declare that I would paint for the rest of my life.

・・・大学を卒業し、大学院に進んだ僕はアルバイトで美大進学を希望する人のための予備校講師をすることになる。講師として生徒たちにおしえるということで、美術的な物の見方や作画するうえでの構成術はもちろん、自分が頭や心で考えていたことも言語化しなければいけなかった。その体験は僕を大きく成長させたと思っている。今思うと、それは自分自身が在るということの再確認でもあったのだが、新鮮な10代の学生たちに接することで感性をリフレッシュすることもできたのだ。

After receiving my undergraduate degree, I entered the graduate school of my university and got a part-time job teaching at an art yobiko—a prep school for students seeking entrance to an art college. As an instructor, training students how to look at and compose things artistically, meant that I also had to learn how to verbalize my thoughts and feelings. This significant growth experience not only allowed me to take stock of my life at the time, but also provided a refreshing opportunity to connect with teenage hearts and minds.

・・・そうだ、理想論。当たり前だけれども、生徒たちを前にしての話は作家としての理想論になっていく。それは、まだ作家としての自意識を持てないでいた自分を苦しめた。生徒たちに慕われれば慕われるほどに、理想論を語る自分は、先生という名の仮面をかぶった作家の出来そこないだった。美大を卒業してからも講師の仕事は続き、美大を目指す生徒たちに道を説く自分は、自分が語るそのままに、自分こそが学生として学ばなければならないのではないかと思うようになってしまった。そして、今こそ本来の意味での美術学生になる時だという思いは強くなり、ドイツに渡って勉強するのだと決意する。長く住みなれた街を離れて旅立つ日、駅のプラットフォームにはたくさんの生徒たちが見送りに来てくれた。

And idealism! Talking to groups of art students, I naturally found myself describing the ideals of an artist. A painful experience for me—I still had no sense of myself as an artist. The more the students showed their affection for me, the more I felt like a failed artist masquerading as a sensei (teacher). After completing my graduate studies, I kept working as a yobiko instructor. And in telling students about the path to becoming an artist, I began to realize that I was still a student myself, with many things yet to learn. I felt that I needed to become a true art student. I decided to study in Germany. The day I left the city where I had long lived, many of my students appeared on the platform to see me off.


・・・中略・・・
[Omitted]

・・・僕は、内省的な歌う詩人達から深い感受性を学び、その後に出会ったパンクロックから爆発するような表現性を学んだのではないだろうか。

After contemplative folk singers taught me about deep empathy, the punk rockers schooled me in explosive expression.



・・・後略・・・
[Omitted]
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by ynfoil | 2011-03-10 01:31 | art | Comments(0)

Ceramic Review

イギリスの雑誌『Ceramic Review』誌からの質問と僕の答えを抜粋。


1) When did you start working with ceramics and why? What interested you about the medium?
1)いつ頃からセラミックで制作を始められたのですが?また、その理由もお伺いできればと思います。
2) When did you start working at Shigaraki Ceramic Cultural Park? Please tell us about the experience working there.
2)いつから陶芸の森で制作をされるようになったのでしょうか? レジデンス・アーティスト
としてそこでの生活や経験など教えて頂けますか。


僕が初めて『陶芸』というか、粘土で作ったものを焼成して作品化したのは2007年の夏で、場所は陶芸の森でした。実は、その以前から陶芸の森でのレジデンス・アーティストのオファーを受けていましたが、それまでアーティスト・イン・レジデンスのようなプログラムに参加したことがなく、しかも絵画が専門の自分にとって『陶芸』というものはピンとこなかったので、お断りの返事をしていました。しかし、2006年秋から翌年の春まで、金沢21世紀美術館で個展をした際に、滞在制作を始めて経験したのですが、とても新鮮で楽しかったのです。現地で出会ったボランティアたちと大きな犬のぬいぐるみを作ったり、一緒に晩御飯を食べて語り合ったり、ライブを企画したりと、絵を描く以外のことが自分を少し成長させてくれた気がしました。そういうわけで、陶芸の森からのオファーを受けることにしたのは、「陶芸がしたい!」というよりは、いつも制作している場所ではないところに行き、そこで出会う人々を触媒として自分がもっと成長できるのでは、という期待と、絵を描く以外の自分の未知な部分を知りたかったのです。

実際、陶芸の森での滞在は新しい自分を発見させてくれたし、今まで一人で制作してきた自分に人と関わることの楽しさ、素晴らしさをおしえてくれました。自分よりも若い作家、年上の作家、日本だけだはなく色々な国から来ている作家たち。日中は、それぞれがそれぞれのペースで制作に没頭するのだけれど、夜はみんなでわいわい言いながら、一緒に料理をして食べる。飲んで語り合ったり、スタジオに戻って夜中まで制作を続けたり、窯の様子を見に行ったり・・・。各自の制作方法も様々で、ロクロを使って器類を作る人に、具象的な彫刻を作る人、『物質としての土を焼くという行為自体』に意味を求める人と多種多様で、初心者ながらも彫刻作品を作ってもいた自分が、その場に入っていくことに不安はありませんでした。なによりみんな親切で、彼らから陶芸の歴史や、ロクロの使い方などおしえてもらいました。ロクロを使って制作する気はなかったのですが、少しでも出来るようになるとやっぱり楽しくて、普段使いの器も作ってしまいました。


3) Do you now have a wheel and kiln in your studio? Where is your studio?
3)奈良さんのアトリエには、轆轤や窯はあるのでしょうか? アトリエはどちらですか?

僕のスタジオは東京から北へ200kmほど離れた高原地帯にあります。ご近所が3軒の田舎で、ロクロも窯もありません。僕は普段の制作ではアシスタントを使わないので、そこでは絵画制作が主です。

4) Do you have any favourite modern ceramic artists, or older ceramics from history. If so, what examples and why?
4)奈良さんのお好きな近代の陶芸家、または陶芸の歴史の中で特に好きな作品はありますか?
もしある場合、その理由についても教えて下さい。

陶芸を学ぶ以前から、李朝の欲のない素朴な表現に惹かれていました。あまり釉薬や技術には興味がないようで、白黒写真でみても鑑賞できるような造形的なものに惹かれます。あるいは、作り手の精神が技術を越えて鑑賞者に伝わるようなものが好きです。また、近代北欧の器や、日本でも一般的にポピュラーなルーシー・リーの作品も好きです。

5) Some of your ceramic works are functional – they could be vases for flowers or plates for food. Do you like seeing your characters have this functional role?
5)奈良さんのセラミック作品の中には、花瓶や壷、食器といった普段使いの物もありますよね。ご自身のキャラクター達が実用的な器になることについては、どう思われますか?

僕が作った普段使いの陶器は、基本的にNot for saleでほとんど友人にプレゼントするためのものです。知らない人の手に渡ることを考えて作ってはいません。また、実用品として知らない人の手に渡せるほど僕のロクロ技術は高くはありません。


7) Your work ‘Fire Mountain’ (2010), for example, is not painted or glazed. Did you want to emphasise the raw, clay texture? What do you like about this texture?
7)例えば、2010年の「Fire Mountain」という作品は、素焼きのまま(焼締め)の状態です。これは、土の持つ質感をそのまま強調しようとした結果なのでしょうか? また、このようなテクスチャーがお好きなのは何故ですか?

その上に釉薬をかけて焼いても焼かなくても、素焼きの時点でスピリットがちゃんと伝わる状態だったからです。僕にとっての完成はそういうことです。

8) Your large ceramic sculptures look like ‘Haniwa’ from Shinto tombs, or ‘Komainu’ in later periods. Did you intend this connection, and why?
8)奈良さんの大きなセラミック作品は、古墳時代の埴輪や、その後の時代の狛犬を彷彿させます。この関係性は意図的なものなのでしょうか、またそれは何故ですか?

たぶん、現代的なテクニックではなく、なにか根源的なものを重視していた結果ではないかと思います。単純で力強い造形に興味があり、釉薬やへら等の道具にはあまり興味がありません。僕の場合、道具を使いすぎると表面的になってしまうので、素手で土と取っ組み合いをしながら作りたいと思っています。

10) When and where are your ceramics going to be exhibited in 2011? Any plans to show them in England?
10)2011年にセラミック作品を展示する予定がありましたら、その展示の時期と場所が知りたいです。イギリスでセラミック作品を展示する予定はあるのでしょうか?

これからもセラミック作品は制作していきますが、1メートルを越える大きなものも多く、時には2メートルも越えてしまい、梱包はもとより運搬や設置が非常に大変なため海外でも展示は予定していません。そのようなことをサポートしてもらえる美術館などからのオファーがあれば喜んでイギリスで展覧会をしたいです。小品だけでの展示は僕の本意ではないので、大小の作品を同時に見せたり、絵やドローイングも交えた展示をしてみたいです。
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by ynfoil | 2011-03-05 17:34 | art | Comments(0)

版画の話

木版画・・・小学生の頃、冬になった時の図工の定番。彫刻刀で木を彫り込む感触を、あの優しい抵抗感を僕の手はまだ覚えている。当時の木版画を振り返ると、僕の中では彫ることと摺ることに重点が置かれていた。今、ニューヨークの版画工房で制作された木版画を眺めていると、昔の自分が考えもしなかった原画というものの大事さと、それを損なうことなくエディションとして成り立たせるための彫りと摺りのテクニックが、自分以外の人の手で行われるという必然性を感じる。

数年前、銅版画と石版画を制作したことがあったのだけど、摺り以外の版を作る作業は自分が行っていた。自分の手が入った時点でそれはユニーク作品になるという感覚から抜け出せず、摺るのは1枚ではいいのではないか?あるいは、こうして版を作っている時間があったら一体何枚のドローイングが描けるのだろうか?というような問いばかりが浮かんでいた。そして、完成したものを見ていると、表面に物質的な魅力がある銅版画はエディションの意義があると思えたが、石版画は自分には向いていないと実感して、絵やドローイングというオリジナルが持っている強さをばかりを再認識することになった。

そんな時に木版画制作の話があり・・・というか、実は10年以上前から、その工房の人から木版画の話はあった。けれども、絵やドローイングを描くことがとてもうまくいっていた時期だったので、あえてエディションを作ることの重要性を感じていなくて断ったのだった。その時から10年以上の歳月の中で、僕は銅版画や石版画に挑戦してみたりしたが、やはり版画の魅力、エディションの魅力がよくわからないままだった。そして、2年ほど前のニューヨークで再び木版画の話に再会したのだった。あれだけ違和感を感じていた版画という表現ではあったけれど、彫りと摺りを職人がするということに興味を覚えた。共同作業というよりも信頼作業。明らかに自分の手から離れて作られていくことに対しては、まったくもってAll or Nothingで、結果ダメなら全部没でもいいと思って始めたのだった。

実際に制作に入ってみると、あたりまえだけれども僕自身が摺ることはもちろん、彫ることもなく作業は進んでいき、それはまるで江戸時代のようで、広重や北斎の原画を元に版元の職人が制作しているかんじだった。事実、木版の彫りや、数枚の版を重ねて原画のような色を和紙に定着するテクニックは浮世絵版画と同じであった。共同作業で感じる一体感や連帯感はそこにはなかったが、なにかしらもっと厳しい世界に感じられた。

うまくは説明できないけれど、たとえばコシヒカリやササニシキというとても美味しい米の品種がある。ブルーマウンテンなどの高級コーヒーでもいい。要は米の炊き方、コーヒーの淹れ方に似ている。原画をどのようにして炊いたり、淹れたりするかということに似ている気がした。素材の持ち味をどれだけ引き出せるかということ。そのような技術を持ち、こだわっている人はみな厳しい。素材を提供する側も厳しくならざるを得ないし、それを食べるだけの人さえも厳しかったりする。

そういうふうに感じながら進んでいった木版画制作なのだけれども、日本の木版画技法に熟知し、欧米の作家たちの木版画作品も数多く手がけてきた柴田さんが彫りと摺りをやってくれた。もともと10程前に木版画制作の話をしてくれたのも彼で、このプロジェクトは実に長い期間があって実現したことになる。柴田さんは日本の大学で木版画を学び、卒業後はアメリカに移住して今回の版画制作でお世話になったPACE PRINTでずっと仕事をしている専門家だ。チェックのために訪れた工房で、彼の娘さんが原画を真似て描いたものがたたくさん壁に貼られていたのを見た時、この制作は絶対にうまくいくと思った。

そもそもエディションは、作品が自分の手から離れていくことを前提にしていると思うのだが、今回の木版画制作が今のこの時期の自分で良かったとも思っている。一昔前の、まだ作品に対してしっかりとした親心も持てず、描けば描きっぱなしだった頃の絵であれば、人にゆだねて版画を作ることも無理だったろうし、良いものが出来るわけはなかっただろう。

何回目かの工房を訪れた時、柴田さんは自家用車で僕を送ってくれながらこんなことを言った。彼は自分から作家に対して版画制作のお願いをすることはないらしく、あの10年ほど前にどうして僕に対して木版画制作の話を口にしたのか自分でも驚いたのだと。その時、フロントガラスの前に広がるニューヨークの街並みが、急にフレンドリーに見えてきて、僕はなんだか優しい気持ちになり、木版画がまだ完成してもいないのに、すでに版画展がうまくいったような気分になってしまった。
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by ynfoil | 2011-02-26 01:06 | art | Comments(0)

櫃田せんせい

1981年、僕は名古屋郊外の長久手町にある愛知県立芸術大学に進学した。そこで出会ったのが櫃田せんせいだ。せんせいは美術の話以外にサブカルチャーにも詳しく、映画や演劇、マンガや絵本の話もよくしてくれた。しかし、実のところ僕はせんせいに一度も受け持ってもらったことがない。せんせいの話のほとんどは、よくお邪魔したせんせいの官舎か、誘われて連れていってもらった喫茶店で聴いた。なんかエコ贔屓っぽい感じがするけど、その頃の僕はあんまり学校で制作するわけでもなく、いつも下宿で落書きのような絵ばっかり描いていて、優等生とは程遠い学生の僕を気にかけてくれるのは不思議だったのだけれど、もちろんうれしかった。担任してくれた先生方からよりも、櫃田せんせいからおそわったことが僕の学んだ大学教育のほとんどな気がする。それゆえ、僕は櫃田せんせいの教え子と呼ばれているのだけれど、せんせいは科を越えて、日本画科の杉戸や彫刻科の森北にも親切に指導してくれた不思議なせんせいなのだ。『先生』というよりも、やっぱ『せんせい』なのだ。

さて、せんせいが損保ジャパンの東郷青児美術館で回顧展をしていたので観に行ってきたのだけれど、何か不思議な感覚と共に鑑賞した。展示してあるほとんどの絵は、僕がせんせいのアトリエで眼にしていたものだからだろう。1988年からドイツに住み始めた僕は、一時帰国の際はほとんどせんせいの官舎に居候していた。それはせんせいが家を建ててからも続くのだけど、その家には通称『奈良の部屋』という3畳間まである。とにかく、自然にせんせいの制作現場に接する機会が多かったのだ。アトリエから2階の居間に続く階段の昇り降りの時に見える絵が、進行していく様子や、机の上に散乱している資料やスケッチの数々。パレットの上にチューブから捻り出されたばかりのフレッシュな絵の具。ペインティングオイルの匂い。そんな記憶がフラッシュバックしていた。

混色をしたベースに線描、もやっとした中間色の絵肌にマスキングをしたように部分的に原色の透明色を置く。四方の角あたりの構図や絵の具操作に変化をつけて、単調にならないようにする。鑑賞していると視覚と触覚が交互に機能する楽しさ。平面の中に段々に存在する壁や、斜引きされた線が作り出す歪んだ遠近法。冷静な描写と色面に横やりをさすような感情的なストローク。

あまりにも知りすぎているはずの画面なのに、じっと鑑賞を楽しんでいる自分がいる。たとえば、ジョットの絵でもそうなのだけれど、モチーフや物語や逸話などのいろんな感情が交差した後にやってくる、冷静な絵画鑑賞の悦楽とでもいうのだろうか。絵画を勉強しなければ・・・あるいは、せんせいの作画をまじかで観ていなければ、こうした鑑賞は出来なかったかもしれないと思う。絵画の組み立て方でいえば、せんせいと杉戸は非常に似ている気がする。そして僕は、リラックスしてくると靴下を半脱ぎするところが似ている。

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by ynfoil | 2011-02-14 07:06 | art | Comments(0)

遠くの羽音 / 村瀬恭子 @豊田市美術館

むっちゃんの展覧会、めっちゃ良くて、オープニングの次の日もぐるぐる2回も廻って観ていたんだけど、けっこうラフなタッチも多い絵なのに繊細で、四角い絵の四隅すべてに神経を行き渡らしていて、色形の情報もメチャ多くて、しかもそれがすべて必然的であって、ほんとうに感動と感心と尊敬の気持ちで心がいっぱいだった。もちろん、他のオーディエンスより画家のことを深く知っているというのもあるのだろうけど、とにかく良かった。大切にしてるよね!いろんなことを投げやりにせず、丁寧に面と向き合って描いている。真夜中、あのスタジオでひとりでずっと描いているのだよね。

たとえば、僕の絵っていうのが、木々が集まった森を、塊としての森を描いているとするなら、むっちゃんは木々の奥深くに神経を浸透させて描いている。木の葉の両面、葉脈に流れる物語まで聞こえてくるようだ。少女も山々も草木も花も鳥も、森羅万象が平等なタイムラインに沿って描かれているようだ。肉食系とか草食系というカテゴライズがあるけど、そんなふうに言うなら筋肉系じゃなくて神経系かなぁ。

これからは、そんな絵が、高いクオリティを携えたそんな絵の理解が深まっていって、どうも自分のようにキャラクター的なものが画面を占領している流れってのは、下火になっていく気がする。そうすると、そんな風な絵を描いてる人の大半は、描けなくなったり消えていったりするのだろうけど、自分はと言えば、そんな風潮の始めの方にしっかり位置してるので、下手っぴでアマチュアっぽくても残っちゃうんだよな。後から出てきた作家で自分より上手い人はたくさんいるんだけどなぁ、恥ずかしいなぁ。でも、残るといっても美術史か風俗のある位置に残るということで、描き続けていてもメディアや収集の対象から外れていくかもしれん。でもまぁ、そうなっても地味~に描き続けていくことだけはきちんとわかってるんだけどさぁ。とにかく、杉戸やむっちゃんのようなPainter’s Painterの存在は、今の美術界の良心だと思う。バックを塗りつぶすこともなく、画面全体を平等に見ることが出来る眼と心を持っているよ。

         ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

初日、むっちゃんと学芸の天野さんとのトークだったけど、話し足りなかったよな~。天野さんは、まぁ学者な人だからむっちゃんの絵を多くの画家のOne of themみたいに客観的に、っていうか批評的に語るけど、もっと個に入って語って欲しかったかな~。カタログに寄稿してた平野千枝子さんという人のテキスト、しっかり深くって読みごたえがありました。

鉛筆ばっかのドローイングはちょっと抑えて、色の綺麗さを感じられるようなドローイングになるよう、昔のように筆を使ったりして努力してみよう・・・・・・
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by ynfoil | 2010-04-12 02:33 | art | Comments(0)