僕が6年間の学生時代を過ごしたところ・・・愛知県愛知郡長久手町に戻って来て、半年が過ぎた。
僕が6年間の学生時代を過ごした学校・・・愛知県立芸術大学に戻って来て、半年が過ぎた。
ほんの3週間ばかり前に、長久手町は長久手市になった・・・見渡す風景も、僕の学生時代とは変わってしまったし、学生の下宿にある電化製品だって、僕の頃とは全く違うのだろう。
そんな変化っていうものは、これからもどんどん加速していって、今の学生たちが自分の歳になる頃には、まったくもって未来世界になっているのだろう。
それでも、変わらないものがあるのだ。
いつの時代も、己の見えない未来に、少しでも実体を与えるべく思考し、形にしようとする若者たちの姿だ。
今、僕の眼に映る学生たちの姿は、何にも変わっていないあの頃の自分のようだ。
そして、気付くのだけれども、自分自身も何も進歩しちゃいなくって、体だけが勝手に歳を重ねただけで、やっぱり自分も学生のように前進しようともがいている。
一歩前へ!と、前進しようとするかぎり、心はいつもあの頃のようであり、もしかしたらディランの言うように「昨日よりも若い」のかもしれない。
今まで、自分が作ってきたものたちは、それらが自分からどんなに遠くへ行ってしまっても、自分と繋がっていて、自分の体の一部であるかのようだった。
最近、レゾネ制作を通して自分の作品をかなり冷静に、且つ客観的に見ることができた。それは自分史ではく、作品史であった。作品の緩やかな移り変わりは、作者以上にしっかりと人生という道を歩いてきたように思える。
思い返すに、2001年の横浜個展では、作品たちはあくまでも僕のものであり『I DON’T MIND, IF YOU FORGET ME.』という展覧会タイトルのように突き放すことだって平気だった。どんなに突き放しても、作品は自分と共にあるという確信があった。世の中には自分と作品しかないよう感じていたし、逆にオーディエンスにこそ『僕のことを忘れて欲しい』とさえ思っていたのだ。
今現在、レゾネ制作や震災、オーディエンス層の拡大、過大な、あるいは順当な、あるいは不当な評価、数々の展覧会での経験、自身の加齢・・・いろいろな理由から、僕は作品を自分の元から旅立たせること(作品自体としての自立)を現実的に考えられるようになったようだ。
もはや好むと好まざるにかかわらず、自分が作るものは、僕自身の自画像ではなく、鑑賞者本人や誰かの子どもや友達だと感じるオーディエンスのものであり、欲を言えば美術の歴史の中に残っていくものになっていくと思っている。自分の肉体が滅んでも、人類が存在する限りは残っていくものということだ。
そういう意味も込めて、もはや自画像ではなく「自分にちょっと似ている」自立したもの、かといって100%オーディエンスに委ねられるものでもない。僕の絵を見て「これは私だ!」と自己投影する話はよく聞く。それはビュジュアル的な表面にではなく、内面や重なり合うレイヤーを感じての自己投影。僕は、そういう時は、もうそれでいいと思うようになった。でも、やはり自分が作り出したという親心は残っている。それで「僕にちょっと似ている」であり「君にちょっと似ている」となったわけなのだ。そして、それらはあくまでも「僕や君にちょっと似ている」のであって、作品自体は僕やオーディエンスのように、ひとつひとつが自我を持つ「作品という名の本人」であるのだ。
けれども、スタジオで彼らを作り出していく過程においては、僕と彼らは依然として一心同体であり、オーディエンスや批評は遠くに行ってしまっている。壁に貼られたポスターの中にいるヒーローたちや、棚に並んでいる時代遅れの人形たちだけが、僕と彼らの密接なやりとりを知っている。
9月から、名古屋市郊外にある愛知県立芸術大学にやって来て滞在制作をしているのだけど、母校だけあって非常に過ごしやすく、本来の目的であった『現在の精神力を身につけたまま学生時代にタイムスリップし、そこから倍速で学生時代をやり直し2011年の今に戻って来る』という幼稚な発想を、怖いくらい具体的に実行できている。
美大に入学したての1年生のアトリエに足を踏み入れてみれば、技術的には上手いのだが、ほとんど個性の無い、どれが誰のものだかわからないようなデッサンの集団が眼に入る。眼に映るものの解釈が、基本的な造形論のようなもので表現されているのだ。この時期、個性は無いが造形的な価値観が共通しているので、共同で作品を作ったりしても面白いと思うし、わりと簡単にそれが出来る気もする。しかし、学生の人間的な成長と共に、それぞれの作風らしきものを追求し始め、卒業する頃には多種多様な作品がアトリエの中に現れる。その中には、依然として自分探しを続けていたり、入学当初の技術的なものから脱却すらしていない者もいるし、原石が研がれて輝き始めている者もいたりと、もはやひとつの価値観を共有することは出来なくなっている。その多様な価値観の表出こそが、表現と言う行為を観る醍醐味なのだろうし、同じく多様な批評や評論を生んでくれるのだろう。
・・・学生と同じ空間で制作していると、自分の知識や経験から得たものを、時々めっちゃおしえたくなってしまうんだよなぁ。僕がもし生徒を持つようなことがあれば、自分の本棚全ての書物を与え、毎日のようにディスカッションして、過保護な教育をしてしまいそうだ。やっぱ、止めとこう。『明日のために その1』だけでいいのだろう、まずは。それをやり続けた者だけが、その2にたどり着くのだ。
今日は「学生のために」と称した講義をした。画像を見せて語るよりも、自分の経験から得た言葉で語ったつもりだけど、どれだけ伝わったのかはわからない。けれども、わかる者だけがわかる、でもいいと思っている。あるいは、真面目に誤解してわかってしまうのでもいい。要は、他の美術一本ではない人々には理解しづらい、人生を賭けるような切実さが伝わったらそれでいい。
傍から見た僕は、成功しているふうな作家のひとりかもしれない。才能あふれて制作しまくる作家に映るかもしれない。しかし、僕自身はいたって普通の人間であることは、接した学生ならみんなわかることだろう。もし、僕が作家という位置に立脚しているふうに映るのならば、それは「切実さ」に他ならないのではないかと思う。「切実さ」の意味は、問われても答えられない。答えられないからこそ、その「切実さ」のために、言葉で答えるのではなく手を動かし制作しているのだ。それは、食うためではないことだけは確かだし、楽しむためでもないことも確かだ。なんとなくではあるが、生きていることを実感するために、今この世に、この時代に自分がいることを、自分自身で確かめるために・・・確かめるために、色々と手を尽くし、その答えを生きているうちに手にしたい、命が果てるまでには必ず手にしたい、というような行動可能な残り時間に対する切実さというのが一番近い気がする。
多分、パンクロックに出会った時に共感したものも、明日がどうなるかわからない中で今を歌うような切実さにあったのだと思う。
あの頃が良かった、あの頃の作品が良かった、というオーディエンスはいる。しかし、そんな人に、そんな作品を見せ続ければ、きっと飽きてしまうだろう。その人の成長と共に感じ方は変わるし、作家自身も変わっていくのだ。ダメな時があり、復活する時があり、その繰り返しだ。常に自分自身が、誰の眼も気にしない勇気あるオーディエンスであるべし。
かつて、とある学芸員がシャガールの絵の素晴らしさを説くので、自分もいつかそんなふうな作品を描くのだ!と言ったら、「シャガールは越えられないよ」と即答されたことがあった。今まだ生きている40そこそこの画家に、すでに他界してしまった画家を優位に置く言動に失望したのを思い出した。確かに、理性的になれば、僕は自分でもはっきりと、ああいう画家を越えられるとか、そんなことは微塵も考えたことはない。そもそも比べるという発想がないのだ。ただ、その失望は「越えられないよ」の言葉が、この先、僕がさらに生きて絵を描いていくこと自体がその人にとっては物故作家のシャガールの絵に比べると、越えられないという、自分のこれからの創作活動に対する否定の烙印に感じたのだ。それは正に、その人にとって、まだ生きている自分の存在価値が、物故作家より無いということだった。
そんなことも、どうでも良くなった。人は人を信じすぎると失望が待っている、ということだ。今はプライドや知識や分析のない付き合いをしていける人々と、肯定も否定も意見し合い語り合うことの素晴らしさを実感しながら生きている。
母校の学生たちには、かつての自分がそうだったような顔をしていた。みんなに、伝えたいことはもっともっとあった。それは、3時間そこらじゃ無理なのはわかっている。言いたかったことの少しでも、なんては思わない。ただ、制作していくことに対する言葉に出来ないような「切実さ」だけが伝わってくれていたなら、と願っている。
美大に入学したての1年生のアトリエに足を踏み入れてみれば、技術的には上手いのだが、ほとんど個性の無い、どれが誰のものだかわからないようなデッサンの集団が眼に入る。眼に映るものの解釈が、基本的な造形論のようなもので表現されているのだ。この時期、個性は無いが造形的な価値観が共通しているので、共同で作品を作ったりしても面白いと思うし、わりと簡単にそれが出来る気もする。しかし、学生の人間的な成長と共に、それぞれの作風らしきものを追求し始め、卒業する頃には多種多様な作品がアトリエの中に現れる。その中には、依然として自分探しを続けていたり、入学当初の技術的なものから脱却すらしていない者もいるし、原石が研がれて輝き始めている者もいたりと、もはやひとつの価値観を共有することは出来なくなっている。その多様な価値観の表出こそが、表現と言う行為を観る醍醐味なのだろうし、同じく多様な批評や評論を生んでくれるのだろう。
・・・学生と同じ空間で制作していると、自分の知識や経験から得たものを、時々めっちゃおしえたくなってしまうんだよなぁ。僕がもし生徒を持つようなことがあれば、自分の本棚全ての書物を与え、毎日のようにディスカッションして、過保護な教育をしてしまいそうだ。やっぱ、止めとこう。『明日のために その1』だけでいいのだろう、まずは。それをやり続けた者だけが、その2にたどり着くのだ。
今日は「学生のために」と称した講義をした。画像を見せて語るよりも、自分の経験から得た言葉で語ったつもりだけど、どれだけ伝わったのかはわからない。けれども、わかる者だけがわかる、でもいいと思っている。あるいは、真面目に誤解してわかってしまうのでもいい。要は、他の美術一本ではない人々には理解しづらい、人生を賭けるような切実さが伝わったらそれでいい。
傍から見た僕は、成功しているふうな作家のひとりかもしれない。才能あふれて制作しまくる作家に映るかもしれない。しかし、僕自身はいたって普通の人間であることは、接した学生ならみんなわかることだろう。もし、僕が作家という位置に立脚しているふうに映るのならば、それは「切実さ」に他ならないのではないかと思う。「切実さ」の意味は、問われても答えられない。答えられないからこそ、その「切実さ」のために、言葉で答えるのではなく手を動かし制作しているのだ。それは、食うためではないことだけは確かだし、楽しむためでもないことも確かだ。なんとなくではあるが、生きていることを実感するために、今この世に、この時代に自分がいることを、自分自身で確かめるために・・・確かめるために、色々と手を尽くし、その答えを生きているうちに手にしたい、命が果てるまでには必ず手にしたい、というような行動可能な残り時間に対する切実さというのが一番近い気がする。
多分、パンクロックに出会った時に共感したものも、明日がどうなるかわからない中で今を歌うような切実さにあったのだと思う。
あの頃が良かった、あの頃の作品が良かった、というオーディエンスはいる。しかし、そんな人に、そんな作品を見せ続ければ、きっと飽きてしまうだろう。その人の成長と共に感じ方は変わるし、作家自身も変わっていくのだ。ダメな時があり、復活する時があり、その繰り返しだ。常に自分自身が、誰の眼も気にしない勇気あるオーディエンスであるべし。
かつて、とある学芸員がシャガールの絵の素晴らしさを説くので、自分もいつかそんなふうな作品を描くのだ!と言ったら、「シャガールは越えられないよ」と即答されたことがあった。今まだ生きている40そこそこの画家に、すでに他界してしまった画家を優位に置く言動に失望したのを思い出した。確かに、理性的になれば、僕は自分でもはっきりと、ああいう画家を越えられるとか、そんなことは微塵も考えたことはない。そもそも比べるという発想がないのだ。ただ、その失望は「越えられないよ」の言葉が、この先、僕がさらに生きて絵を描いていくこと自体がその人にとっては物故作家のシャガールの絵に比べると、越えられないという、自分のこれからの創作活動に対する否定の烙印に感じたのだ。それは正に、その人にとって、まだ生きている自分の存在価値が、物故作家より無いということだった。
そんなことも、どうでも良くなった。人は人を信じすぎると失望が待っている、ということだ。今はプライドや知識や分析のない付き合いをしていける人々と、肯定も否定も意見し合い語り合うことの素晴らしさを実感しながら生きている。
母校の学生たちには、かつての自分がそうだったような顔をしていた。みんなに、伝えたいことはもっともっとあった。それは、3時間そこらじゃ無理なのはわかっている。言いたかったことの少しでも、なんては思わない。ただ、制作していくことに対する言葉に出来ないような「切実さ」だけが伝わってくれていたなら、と願っている。
自分の行っている表現方法は、技術的にはアカデミズムの中で学んだ基本的な物に支えられている。アカデミズムの正式な定義は知らないが、コンサバティブなものではなく、自由を見つけ出すための基本だと思っている。その入り口は狭く、奥行きがあり、気の遠くなるほど進めば大きな広場に繋がっている。僕は、その広場にたどり着きたくて、アカデミズムの破壊と再構築を繰り返している気がする。破壊と再構築をすればするほど、裾野は広がり、さらに高い山を築くことができる。裾野が広くなれば、かつての小さな山の形に似た大きな山にもなるし、連山を作ることも出来るかもしれない。小さな裾野を持つ山に高さを求めるならば、それは不安定であり、高さの限界はすでに見えているはずだ。そんな小さな山は、あたりを見渡せばいたるところに乱立していて、美大生時代の僕だったら素敵に羨ましく見えただろうし、裾野の広い高い山や山脈に繋がっているものだとも思っただろう。
成功したイメージの延長を求めること、限界はその中にある。それが小さな山だ。限界は、小さな成功の中にすでにあるのだ。破壊して再構築するということは、スタイルを変えていくということでもない。むしろ、同じスタイルでありながらそれを出来ることが自分の理想だ。例えて言えば、僕はニール・ヤングが歌う姿にそういうものを見ているし、変わることのない己の世界観、何を見つめ、何を作っていくのかということは、自分にとってとても大切なことだ。そこにはスタイルやバリエーションを変えていく中で描かれる絵には表れないものがある。それが良いのか悪いのかはどうでもよくて、ガードを固めずにひたすら打ちまくる『あしたのジョー』のようでもあり、僕の好きな道なのだ。
『NARA 48 GIRLS』の発刊に際して編集の大山さんが『ちくま』に載せた文章だけど、『NARA 48 GIRLS』のあとがきに入れたかったなぁ~
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二〇〇六年から三年間、「ちくま」で画家の奈良美智さんに表紙と裏表紙に連載をお願いした。
このことをお願いしに伺ったのは、秋の始めの天気のよい日だった。当時、アトリエ+お宅があったのは東京の外れ、小さな駅からさらに車でしばらく行った、畑と町工場しかないところだったけど、「遠くに来たな」とうきうきしながら向かった。ようやくお仕事場らしき工場のような建物の前に到着。呼び鈴を鳴らしたが、中から人が出てくる気配がない。日にちを間違えたかと手帳を確認してみたが、ちゃんと今日のこの時間になっている。携帯電話をかけてみるが、つながらない。本当に困った。しばらく待っていたが、奈良さんがどこかから現れる気配もなく、その日は手紙を書いて扉にはさみ、うなだれて帰った。
「ちくま」のような小さな雑誌の表紙に作品を寄せてくださったのは、きっとこの日、すっぽかして悪かった、と奈良さんが思ってくれたからだろう。雑誌の表紙には、よくその時々の旬なタレントさんの写真が載るが、自分の描いた女の子たちがカバーガールとして表紙を飾ったら面白いね、と言ってくれたのは奈良さん本人だった。毎月、描いている女の子が、リアルタイムで紹介されていく、楽しい連載になればいいなとスタートした。
第一回目の作品は、横浜トリエンナーレに展示されていたので観に行った。展示されていた腰まで水に浸かった女の子の絵は、印刷された絵とは存在感がぜんぜん異なるし、色の厚みやコントラストがまったく違うのに打ちのめされた。同じ絵が、同じタイミングでホームレスの支援雑誌「ビッグイッシュー」の表紙を飾っていたのだけど、「ちくま」は「ビッグイッシュー」の半分の大きさで、見た感じの迫力もぜんぜんかなわなくて、ますます打ちのめされた。何度も何度も印刷をやり直してもらって何とか完成させたが、奈良さんもきっとがっかりしたのではないかと密かに思っている。ごめんなさい。
連載中は、ふだんの奈良さんファンとは違うファンが増えたと思う。北海道の釧路に住む、七十代半ばの男性からファンレターが届いたことがあった。丁寧な手紙には、奈良さんの絵と絵につけられた詩にとても励まされた、とあって、毎月、「ちくま」を楽しみにしてくださっているらしい。何よりも驚いたのは、手紙と一緒にししゃもが百匹ほど送られてきたことだ。さすが北海道だ。すぐに奈良さんに連絡をすると、今はタイにいるので、編集部の皆さんでどうぞ、とのこと。送ってくださった方に事情をお話しして、みんなでおいしく頂戴したのだが、話はそれでは終わらない。釧路の方は、十日ほどたったころ、もう一度、ししゃも百匹を奈良さんに届けてくださった。今度は、連載が終わったら、奈良さんの作品集を作ってくださいと添えられていた。
締め切りが近くなると、「今月はどうですか?」と連絡をした。忙しい奈良さんのこと、忘れていないかな、と不安だった。うまく連絡が取れなければ、その月の「ちくま」が白表紙になってしまう。けれど、「あっ、忘れていました」と言われたことは一度もない。ただ連絡を入れると、海外の思いがけない場所にいて、すごく眠そうな声で応答があったことが何回かあった。作品と詩という連載の原稿は、だいたいスムーズに受け取ることができたけど、時には、壁面に飾られて斜めにゆがんだ画像に今月はこれ、と書き込みがされた添付ファイルの画像が届き、それを受け取ることもあった。
奈良さんのところに電話をすると、よく受話器からは音楽が聞こえてきた。大音響でCDをかけながら一心に絵を描いていたのだと思う。いつも絵を描いている奈良さんがちゃんといて、私はとても安堵した。
「ちくま」の表紙を彩った三十六人の女の子に、何人か加えて全部で四十八人の女の子と四十八の詩を集めて、『NARA48GIRLS』という本が出る。ブックデザインは、奈良さんの希望で、「R25」の表紙などを手がけている寄藤文平さんにお願いした。きっと、ずっと手元においておきたいような一冊になると思う。
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二〇〇六年から三年間、「ちくま」で画家の奈良美智さんに表紙と裏表紙に連載をお願いした。
このことをお願いしに伺ったのは、秋の始めの天気のよい日だった。当時、アトリエ+お宅があったのは東京の外れ、小さな駅からさらに車でしばらく行った、畑と町工場しかないところだったけど、「遠くに来たな」とうきうきしながら向かった。ようやくお仕事場らしき工場のような建物の前に到着。呼び鈴を鳴らしたが、中から人が出てくる気配がない。日にちを間違えたかと手帳を確認してみたが、ちゃんと今日のこの時間になっている。携帯電話をかけてみるが、つながらない。本当に困った。しばらく待っていたが、奈良さんがどこかから現れる気配もなく、その日は手紙を書いて扉にはさみ、うなだれて帰った。
「ちくま」のような小さな雑誌の表紙に作品を寄せてくださったのは、きっとこの日、すっぽかして悪かった、と奈良さんが思ってくれたからだろう。雑誌の表紙には、よくその時々の旬なタレントさんの写真が載るが、自分の描いた女の子たちがカバーガールとして表紙を飾ったら面白いね、と言ってくれたのは奈良さん本人だった。毎月、描いている女の子が、リアルタイムで紹介されていく、楽しい連載になればいいなとスタートした。
第一回目の作品は、横浜トリエンナーレに展示されていたので観に行った。展示されていた腰まで水に浸かった女の子の絵は、印刷された絵とは存在感がぜんぜん異なるし、色の厚みやコントラストがまったく違うのに打ちのめされた。同じ絵が、同じタイミングでホームレスの支援雑誌「ビッグイッシュー」の表紙を飾っていたのだけど、「ちくま」は「ビッグイッシュー」の半分の大きさで、見た感じの迫力もぜんぜんかなわなくて、ますます打ちのめされた。何度も何度も印刷をやり直してもらって何とか完成させたが、奈良さんもきっとがっかりしたのではないかと密かに思っている。ごめんなさい。
連載中は、ふだんの奈良さんファンとは違うファンが増えたと思う。北海道の釧路に住む、七十代半ばの男性からファンレターが届いたことがあった。丁寧な手紙には、奈良さんの絵と絵につけられた詩にとても励まされた、とあって、毎月、「ちくま」を楽しみにしてくださっているらしい。何よりも驚いたのは、手紙と一緒にししゃもが百匹ほど送られてきたことだ。さすが北海道だ。すぐに奈良さんに連絡をすると、今はタイにいるので、編集部の皆さんでどうぞ、とのこと。送ってくださった方に事情をお話しして、みんなでおいしく頂戴したのだが、話はそれでは終わらない。釧路の方は、十日ほどたったころ、もう一度、ししゃも百匹を奈良さんに届けてくださった。今度は、連載が終わったら、奈良さんの作品集を作ってくださいと添えられていた。
締め切りが近くなると、「今月はどうですか?」と連絡をした。忙しい奈良さんのこと、忘れていないかな、と不安だった。うまく連絡が取れなければ、その月の「ちくま」が白表紙になってしまう。けれど、「あっ、忘れていました」と言われたことは一度もない。ただ連絡を入れると、海外の思いがけない場所にいて、すごく眠そうな声で応答があったことが何回かあった。作品と詩という連載の原稿は、だいたいスムーズに受け取ることができたけど、時には、壁面に飾られて斜めにゆがんだ画像に今月はこれ、と書き込みがされた添付ファイルの画像が届き、それを受け取ることもあった。
奈良さんのところに電話をすると、よく受話器からは音楽が聞こえてきた。大音響でCDをかけながら一心に絵を描いていたのだと思う。いつも絵を描いている奈良さんがちゃんといて、私はとても安堵した。
「ちくま」の表紙を彩った三十六人の女の子に、何人か加えて全部で四十八人の女の子と四十八の詩を集めて、『NARA48GIRLS』という本が出る。ブックデザインは、奈良さんの希望で、「R25」の表紙などを手がけている寄藤文平さんにお願いした。きっと、ずっと手元においておきたいような一冊になると思う。
いつから始まってるのか
いつ終わりがやってくるのか
夜がきても朝になっても
何も変わらないように息してる
決して戦うことのないような日常
陽は昇っては沈んでいく繰り返し
Hey!Hey! Let's Rock!
透明人間のように
通りを歩くこの僕は
人には見えてはいないのか
土曜の夜に浮かれる奴ら
恋愛ゲームの馬鹿げた番組
故郷の北風が懐かしい
上着をサッと羽織って
外の風にふかれるんだ
十代に見た夢を思い出し
目の前の蜃気楼に映ったら
怒ったように蹴り上げろ
やたらに成金趣味な
この世界に唾吐きかけて
怒ったように蹴り上げろ
やさしい顔で寄って来る
快楽主義のあいつらを
怒ったように蹴り上げろ
寂しくなったら自分に叫べ
「立つんだ!立つんだ!」
「立つんだ!立つんだ!」
「立つんだ!ジョー!」
Hey!Hey! Let's Rock! Let's Rock Again!
いつ終わりがやってくるのか
夜がきても朝になっても
何も変わらないように息してる
決して戦うことのないような日常
陽は昇っては沈んでいく繰り返し
Hey!Hey! Let's Rock!
透明人間のように
通りを歩くこの僕は
人には見えてはいないのか
土曜の夜に浮かれる奴ら
恋愛ゲームの馬鹿げた番組
故郷の北風が懐かしい
上着をサッと羽織って
外の風にふかれるんだ
十代に見た夢を思い出し
目の前の蜃気楼に映ったら
怒ったように蹴り上げろ
やたらに成金趣味な
この世界に唾吐きかけて
怒ったように蹴り上げろ
やさしい顔で寄って来る
快楽主義のあいつらを
怒ったように蹴り上げろ
寂しくなったら自分に叫べ
「立つんだ!立つんだ!」
「立つんだ!立つんだ!」
「立つんだ!ジョー!」
Hey!Hey! Let's Rock! Let's Rock Again!
少し制作に集中したら、何か芸術っぽいことを言ってみたり。
ちょっとライブに行くと、音楽についてしたり顔で語ったり。
映画をたくさん観たり、小説をたくさん読んだり、したようなふう。
まだまだ途中の人なのに、もう止めたりするわけじゃないのに。
わからないことは、まだまだたくさん山ほどあるのに。
わかったふうな事を言うなよ!自分!
自分に向けて言うだけでいいんだ!
いつまでも、わからない!って、呟け!自分!
『わかる』ために生きてるわけじゃないが。
『わかろう』とするために生きてる。
だから、一生わからないだろうけど(何が?www)
『わかる』より『わかろう』とすることのほうが、気持ちいい。
一生、気持ちよくありたい。
ちょっとライブに行くと、音楽についてしたり顔で語ったり。
映画をたくさん観たり、小説をたくさん読んだり、したようなふう。
まだまだ途中の人なのに、もう止めたりするわけじゃないのに。
わからないことは、まだまだたくさん山ほどあるのに。
わかったふうな事を言うなよ!自分!
自分に向けて言うだけでいいんだ!
いつまでも、わからない!って、呟け!自分!
『わかる』ために生きてるわけじゃないが。
『わかろう』とするために生きてる。
だから、一生わからないだろうけど(何が?www)
『わかる』より『わかろう』とすることのほうが、気持ちいい。
一生、気持ちよくありたい。
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